駅のコンコースに残された伝言板は、思ったより小さかった。
改装工事のお知らせに囲まれ、まるで忘れられた荷物のように壁に掛かっている。
「伝言板は今月末をもって撤去いたします」
その張り紙を見た瞬間、私は足を止めた。
何十年も訪れていなかった駅なのに、気づけば自然と伝言板の前へ立っていた。
黒板の表面には無数の傷が走っている。
何万回も書かれ、何万回も消された跡だ。
木枠の隙間には白いチョークの粉が入り込み、まるで時間そのものが積もっているようだった。
私はそっと指先で木枠をなぞった。
すると遠い夏の空気が蘇る。
蝉の声。
アスファルトの照り返し。
汗ばんだ制服。
そして午後五時五十分の駅。
高校二年の夏だった。
私は好きな女の子との待ち合わせに向かっていた。
由美。
同じ図書委員の女の子だった。
長い黒髪。
静かな笑い方。
本を読むときだけ少し伏せる睫毛。
私は何度も映画に誘おうとして、そのたびに勇気が出なかった。
ようやく誘えたのが、その夏だった。
約束は午後六時。
今ならスマートフォンで済む話だ。
けれど当時は違う。
携帯電話など持っていない。
連絡手段は家の電話だけ。
だから駅に着いた私が最初に向かったのは改札ではなかった。
伝言板だった。
伝言板の前には何人もの人が集まっていた。
会社員。
学生。
買い物帰りの主婦。
皆、自分宛ての言葉を探している。
黒板には無数の文字が並んでいた。
『先に映画館へ行きます』
『電話してください』
『急用で帰ります』
『七時まで待っています』
知らない誰かの人生が、チョークの文字になって並んでいる。
私は一行一行を目で追った。
違う。
違う。
これも違う。
心臓だけが速くなる。
そのときだった。
黒板の右下。
小さな文字。
丸みのある字。
見慣れた筆跡。
私は息を止めた。
『ごめん。少し遅れます』
由美だった。
たった七文字。
それだけだった。
なのに世界が急に明るくなった。
来るんだ。
本当に来るんだ。
私は何度もその文字を見た。
夢ではないことを確かめるように。
消えてしまわないように。
たった七文字。
けれど十八歳の私には、それが手紙一通よりも嬉しかった。
午後六時十分。
私は改札の前で待った。
人が出てくるたび顔を上げる。
違う。
また違う。
胸だけが忙しくなる。
午後六時三十分。
売店でコーラを買った。
ガラス瓶は冷たかった。
けれど味は覚えていない。
気になるのは改札口だけだった。
午後七時。
駅の放送が流れる。
制服姿の学生も少なくなった。
私はもう一度伝言板を見に行った。
まだ残っている。
『ごめん。少し遅れます』
少し安心した。
文字が残っているだけで、由美がまだ駅のどこかにいる気がした。
午後七時三十分。
駅員がチョーク消しを持って現れた。
私は立ち上がる。
黒板の前で立ち止まった駅員は、何の感情もなく文字を消し始めた。
『先に映画館へ行きます』
『電話してください』
『急用で帰ります』
白い粉になって消えていく。
そして。
『ごめん。少し遅れます』
その七文字も消えた。
私は黙って見ていた。
止めることはできなかった。
文字は消えた。
だが胸の奥には残った。
由美は結局来なかった。
私は終電近くまで待った。
翌週、学校で彼女の姿を見ることもなかった。
転校したと聞いたのは、その後だった。
理由は知らない。
事情も知らない。
私は聞くこともできなかった。
ただ一つだけ覚えている。
あの夏。
伝言板に残された七文字。
『ごめん。少し遅れます』
それが私たちの最後の会話だった。
―――
三十年後。
改装工事の始まる駅は静かだった。
若者たちは誰も伝言板を見ない。
皆、スマートフォンを見ている。
待ち合わせの相手も。
連絡も。
気持ちも。
すべて小さな画面の中だ。
それは便利だと思う。
実際、その方がずっと良い。
待たなくて済む。
不安にならなくて済む。
勘違いもしない。
それでも私は思う。
あの頃には、あの頃にしかない時間があった。
好きな子の字を探す時間。
伝言板を見上げる時間。
一行の言葉に胸を躍らせる時間。
誰かを待つ時間。
私は最後に伝言板へ手を伸ばした。
冷たい木枠だった。
由美の文字があった場所を、そっと指でなぞる。
もちろん何も残っていない。
三十年以上前に消えた文字だ。
それでも不思議と、そこに確かにあった気がした。
『ごめん。少し遅れます』
たった七文字。
今なら一秒で送れる言葉。
けれど、あの頃の七文字にはもっと重みがあった。
工事作業員たちが伝言板を外していく。
私はその後ろ姿を静かに見送った。
黒板は消える。
けれど。
あの日待っていた十八歳の自分だけは、今もこの駅のどこかに残っている気がした。
🌙 もうひとつ、夜の物語を読む
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