✨夜の物語

伝言板の七文字

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駅のコンコースに残された伝言板は、思ったより小さかった。

改装工事のお知らせに囲まれ、まるで忘れられた荷物のように壁に掛かっている。

「伝言板は今月末をもって撤去いたします」

その張り紙を見た瞬間、私は足を止めた。

何十年も訪れていなかった駅なのに、気づけば自然と伝言板の前へ立っていた。

黒板の表面には無数の傷が走っている。

何万回も書かれ、何万回も消された跡だ。

木枠の隙間には白いチョークの粉が入り込み、まるで時間そのものが積もっているようだった。

私はそっと指先で木枠をなぞった。

すると遠い夏の空気が蘇る。

蝉の声。

アスファルトの照り返し。

汗ばんだ制服。

そして午後五時五十分の駅。

高校二年の夏だった。

私は好きな女の子との待ち合わせに向かっていた。

由美。

同じ図書委員の女の子だった。

長い黒髪。

静かな笑い方。

本を読むときだけ少し伏せる睫毛。

私は何度も映画に誘おうとして、そのたびに勇気が出なかった。

ようやく誘えたのが、その夏だった。

約束は午後六時。

今ならスマートフォンで済む話だ。

けれど当時は違う。

携帯電話など持っていない。

連絡手段は家の電話だけ。

だから駅に着いた私が最初に向かったのは改札ではなかった。

伝言板だった。

伝言板の前には何人もの人が集まっていた。

会社員。

学生。

買い物帰りの主婦。

皆、自分宛ての言葉を探している。

黒板には無数の文字が並んでいた。

『先に映画館へ行きます』

『電話してください』

『急用で帰ります』

『七時まで待っています』

知らない誰かの人生が、チョークの文字になって並んでいる。

私は一行一行を目で追った。

違う。

違う。

これも違う。

心臓だけが速くなる。

そのときだった。

黒板の右下。

小さな文字。

丸みのある字。

見慣れた筆跡。

私は息を止めた。

『ごめん。少し遅れます』

由美だった。

たった七文字。

それだけだった。

なのに世界が急に明るくなった。

来るんだ。

本当に来るんだ。

私は何度もその文字を見た。

夢ではないことを確かめるように。

消えてしまわないように。

たった七文字。

けれど十八歳の私には、それが手紙一通よりも嬉しかった。

午後六時十分。

私は改札の前で待った。

人が出てくるたび顔を上げる。

違う。

また違う。

胸だけが忙しくなる。

午後六時三十分。

売店でコーラを買った。

ガラス瓶は冷たかった。

けれど味は覚えていない。

気になるのは改札口だけだった。

午後七時。

駅の放送が流れる。

制服姿の学生も少なくなった。

私はもう一度伝言板を見に行った。

まだ残っている。

『ごめん。少し遅れます』

少し安心した。

文字が残っているだけで、由美がまだ駅のどこかにいる気がした。

午後七時三十分。

駅員がチョーク消しを持って現れた。

私は立ち上がる。

黒板の前で立ち止まった駅員は、何の感情もなく文字を消し始めた。

『先に映画館へ行きます』

『電話してください』

『急用で帰ります』

白い粉になって消えていく。

そして。

『ごめん。少し遅れます』

その七文字も消えた。

私は黙って見ていた。

止めることはできなかった。

文字は消えた。

だが胸の奥には残った。

由美は結局来なかった。

私は終電近くまで待った。

翌週、学校で彼女の姿を見ることもなかった。

転校したと聞いたのは、その後だった。

理由は知らない。

事情も知らない。

私は聞くこともできなかった。

ただ一つだけ覚えている。

あの夏。

伝言板に残された七文字。

『ごめん。少し遅れます』

それが私たちの最後の会話だった。

―――

三十年後。

改装工事の始まる駅は静かだった。

若者たちは誰も伝言板を見ない。

皆、スマートフォンを見ている。

待ち合わせの相手も。

連絡も。

気持ちも。

すべて小さな画面の中だ。

それは便利だと思う。

実際、その方がずっと良い。

待たなくて済む。

不安にならなくて済む。

勘違いもしない。

それでも私は思う。

あの頃には、あの頃にしかない時間があった。

好きな子の字を探す時間。

伝言板を見上げる時間。

一行の言葉に胸を躍らせる時間。

誰かを待つ時間。

私は最後に伝言板へ手を伸ばした。

冷たい木枠だった。

由美の文字があった場所を、そっと指でなぞる。

もちろん何も残っていない。

三十年以上前に消えた文字だ。

それでも不思議と、そこに確かにあった気がした。

『ごめん。少し遅れます』

たった七文字。

今なら一秒で送れる言葉。

けれど、あの頃の七文字にはもっと重みがあった。

工事作業員たちが伝言板を外していく。

私はその後ろ姿を静かに見送った。

黒板は消える。

けれど。

あの日待っていた十八歳の自分だけは、今もこの駅のどこかに残っている気がした。

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