深夜一時を過ぎると、街の音は急に少なくなる。
昼間は人で溢れていた駅前通りも、この時間になると信号機の音だけが規則正しく響いていた。
昭和五十七年。
まだコンビニより喫茶店の方が夜の居場所だった頃。
私は終電を逃した。
正確には、帰る気になれなかった。
理由は覚えていない。
若い頃はそんな夜があった。
ふらりと入ったのは、駅前の古い喫茶店だった。
木製の扉。
真鍮の取っ手。
チリン、と鳴るドアベル。
少し煙草の匂いが残る店内。
コーヒー豆を挽く音。
壁に掛かった黄ばんだ時計。
カウンターの向こうでは、白いシャツ姿のマスターが静かにグラスを磨いていた。
私は窓際の席に座った。
ブレンドコーヒーを頼む。
しばらくして気付いた。
店の一番奥に、一人の女性が座っていた。
落ち着いた色のワンピース。
肩までの黒髪。
派手ではない。
けれど目を引く。
不思議な人だった。
テーブルの上には灰皿。
冷めかけたコーヒー。
女性は窓の外を見ていた。
誰かを待っているようにも見えた。
待っていないようにも見えた。
その横顔だけが妙に印象に残った。
私は何度か視線を向け、そのたびにコーヒーカップへ逃げた。
見てはいけない気がした。
それでも気になる。
若い男とはそういうものだ。
外では小雨が降り始めていた。
ネオンが濡れたアスファルトに滲んでいる。
女性は窓の外を見たまま、小さくため息をついた。
そしてテーブルに置かれたマッチ箱を指で弄んだ。
その仕草が妙に大人びて見えた。
今でも覚えている。
会話したわけじゃない。
名前も知らない。
それなのに、あの夜のことだけは忘れられない。
なぜなら――
その数分後、彼女が私に初めて声をかけたからだ。
「すみません」
顔を上げる。
女性が少し困ったように笑っていた。
「百円玉、崩していただけませんか」
当時の公衆電話は十円玉が必要だった。
私は財布を開き、十円玉を渡した。
女性は何度も頭を下げた。
その時初めて近くで見た。
綺麗な人だった。
けれど、どこか疲れていた。
女性は店の入口近くにあった赤電話へ向かった。
受話器を取る。
ダイヤルを回す。
しばらく待つ。
そして――
何も話さず受話器を置いた。
私は見てはいけないものを見た気がして視線を逸らした。
女性は席へ戻る。
冷めたコーヒーを一口飲んだ。
そして小さく笑った。
「出ませんでした」
独り言のようだった。
私に向けた言葉だったのかもしれない。
私は何も言えなかった。
女性は窓の外を見た。
雨は少し強くなっていた。
「昔は」
女性がぽつりと言う。
「待つのも楽しかったんですけどね」
私は黙って聞いていた。
「今は待つ理由だけが残ってる気がします」
女性はそう言って笑った。
その笑顔が妙に記憶に残っている。
大人の笑顔だった。
しばらくして女性は立ち上がった。
会計を済ませる。
傘を開く。
そして私の席の横で足を止めた。
「ありがとうございました」
そう言って、
小さな十円玉をテーブルの上に置いた。
結局、その電話は繋がらなかった。
十円玉は使われることなく、
静かに私の前へ戻ってきた。
私は
「いえ」
としか言えなかった。
女性は少しだけ微笑んだ。
そして雨の中へ消えていった。
追いかけようとは思わなかった。
思えなかった。
若かったくせに臆病だった。
それから何年も経った。
あの喫茶店はもうない。
駅前も変わった。
赤電話もほとんど見かけない。
けれど雨の夜になると、時々思い出す。
あの人は誰を待っていたのだろう。
誰に電話をかけたのだろう。
あの後、会えたのだろうか。
それとも。
今でも待ち続けているのだろうか。
もう答えはない。
ただ一つだけ分かる。
人生には、
会話した時間よりも、
忘れられない一瞬がある。
引き出しの奥には、
今でもあの十円玉が残っている。
使おうと思えば使えた。
けれど、なぜか使えなかった。
たった十円。
何の価値もない小さな硬貨。
それでも、
あの夜と繋がっていたのは、
その十円玉だけだった。
名前は知らない。
けれど、雨の夜になると今でも思い出す。
深夜の喫茶店には、
たまに人生に残る人がいる。
🌙 もうひとつ、夜の物語を読む
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誰かと話したい夜に