✨夜の物語

深夜の喫茶店

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深夜一時を過ぎると、街の音は急に少なくなる。

昼間は人で溢れていた駅前通りも、この時間になると信号機の音だけが規則正しく響いていた。

昭和五十七年。

まだコンビニより喫茶店の方が夜の居場所だった頃。

私は終電を逃した。

正確には、帰る気になれなかった。

理由は覚えていない。

若い頃はそんな夜があった。

ふらりと入ったのは、駅前の古い喫茶店だった。

木製の扉。

真鍮の取っ手。

チリン、と鳴るドアベル。

少し煙草の匂いが残る店内。

コーヒー豆を挽く音。

壁に掛かった黄ばんだ時計。

カウンターの向こうでは、白いシャツ姿のマスターが静かにグラスを磨いていた。

私は窓際の席に座った。

ブレンドコーヒーを頼む。

しばらくして気付いた。

店の一番奥に、一人の女性が座っていた。

落ち着いた色のワンピース。

肩までの黒髪。

派手ではない。

けれど目を引く。

不思議な人だった。

テーブルの上には灰皿。

冷めかけたコーヒー。

女性は窓の外を見ていた。

誰かを待っているようにも見えた。

待っていないようにも見えた。

その横顔だけが妙に印象に残った。

私は何度か視線を向け、そのたびにコーヒーカップへ逃げた。

見てはいけない気がした。

それでも気になる。

若い男とはそういうものだ。

外では小雨が降り始めていた。

ネオンが濡れたアスファルトに滲んでいる。

女性は窓の外を見たまま、小さくため息をついた。

そしてテーブルに置かれたマッチ箱を指で弄んだ。

その仕草が妙に大人びて見えた。

今でも覚えている。

会話したわけじゃない。

名前も知らない。

それなのに、あの夜のことだけは忘れられない。

なぜなら――

その数分後、彼女が私に初めて声をかけたからだ。

「すみません」

顔を上げる。

女性が少し困ったように笑っていた。

「百円玉、崩していただけませんか」

当時の公衆電話は十円玉が必要だった。

私は財布を開き、十円玉を渡した。

女性は何度も頭を下げた。

その時初めて近くで見た。

綺麗な人だった。

けれど、どこか疲れていた。

女性は店の入口近くにあった赤電話へ向かった。

受話器を取る。

ダイヤルを回す。

しばらく待つ。

そして――

何も話さず受話器を置いた。

私は見てはいけないものを見た気がして視線を逸らした。

女性は席へ戻る。

冷めたコーヒーを一口飲んだ。

そして小さく笑った。

「出ませんでした」

独り言のようだった。

私に向けた言葉だったのかもしれない。

私は何も言えなかった。

女性は窓の外を見た。

雨は少し強くなっていた。

「昔は」

女性がぽつりと言う。

「待つのも楽しかったんですけどね」

私は黙って聞いていた。

「今は待つ理由だけが残ってる気がします」

女性はそう言って笑った。

その笑顔が妙に記憶に残っている。

大人の笑顔だった。

しばらくして女性は立ち上がった。

会計を済ませる。

傘を開く。

そして私の席の横で足を止めた。

「ありがとうございました」

そう言って、

小さな十円玉をテーブルの上に置いた。

結局、その電話は繋がらなかった。

十円玉は使われることなく、

静かに私の前へ戻ってきた。

私は

「いえ」

としか言えなかった。

女性は少しだけ微笑んだ。

そして雨の中へ消えていった。

追いかけようとは思わなかった。

思えなかった。

若かったくせに臆病だった。

それから何年も経った。

あの喫茶店はもうない。

駅前も変わった。

赤電話もほとんど見かけない。

けれど雨の夜になると、時々思い出す。

あの人は誰を待っていたのだろう。

誰に電話をかけたのだろう。

あの後、会えたのだろうか。

それとも。

今でも待ち続けているのだろうか。

もう答えはない。

ただ一つだけ分かる。

人生には、

会話した時間よりも、

忘れられない一瞬がある。

引き出しの奥には、

今でもあの十円玉が残っている。

使おうと思えば使えた。

けれど、なぜか使えなかった。

たった十円。

何の価値もない小さな硬貨。

それでも、

あの夜と繋がっていたのは、

その十円玉だけだった。

名前は知らない。

けれど、雨の夜になると今でも思い出す。

深夜の喫茶店には、

たまに人生に残る人がいる。

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