商店街の端にある駄菓子屋には、西日が差し込んでいた。
色褪せた赤いテント。
少し傾いた看板。
ガラス戸には一枚の紙が貼られている。
白いコピー用紙。
少し斜めに貼られたそれは、風に揺れて端がめくれていた。
太いマジックで書かれた文字はどこか頼りない。
震える手で書いたのだろう。
最後の文字は少しかすれていた。
『今月で閉店します』
昔なら、この張り紙を見て驚く子供たちがいたはずだ。
最後にもう一度行こう。
あの駄菓子を買おう。
そんな話で賑わったかもしれない。
けれど今は違う。
商店街を歩く人は少ない。
学校帰りの子供たちの姿も見当たらない。
この張り紙に気付く人が、一日に何人いるのだろう。
もしかしたら誰も読まないかもしれない。
それでもおばあちゃんは貼った。
誰かのためではなく。
店を閉じる自分自身のために。
そんな気がした。
私は引き戸を開けた。
カラン。
小さなベルが鳴る。
その音だけは昔と変わっていなかった。
店の奥にはおばあちゃんが座っていた。
背中は少し曲がっている。
白髪も増えた。
けれど割烹着姿は昔のままだった。
私は何も言わず店内を見回した。
棚はずいぶん空いている。
けれど匂いは変わらない。
チョコレート。
ラムネ。
古い木材。
夏の熱気。
子供の頃の記憶が、そのまま閉じ込められているようだった。
そして店の外へ目を向ける。
そこには昔と変わらない坂道がある。
私はその坂を見るたびに思い出す。
三十年前の夏を。
小学五年生だった。
夏休み。
朝から蝉が鳴き続けていた。
空は青く高く、
アスファルトは白く焼けている。
駄菓子屋の前の日陰だけが、子供たちの避難所だった。
私は毎日のように店へ来ていた。
百円玉を握りしめて。
アイスを買ったり。
カードを買ったり。
友達とくだらない話をしたり。
そんな毎日だった。
そして夕方になると、
決まって坂の下から現れる女の子がいた。
美咲。
同じクラスだった。
肩まで伸びた髪。
日に焼けた肌。
表情がころころ変わる女の子だった。
嬉しいことがあれば全力で笑う。
悲しいことがあればすぐ顔に出る。
怒れば頬を膨らませる。
心に思ったことを、そのまま表情にしてしまう子だった。
ある日の夕方。
私は店先の日陰に座っていた。
ふと坂の下を見る。
遠くに小さな人影が見えた。
美咲だった。
夏の熱気で景色が揺れている。
坂道は思った以上に長い。
最後は急な上りになっていた。
美咲はゆっくり歩いてくる。
額には大粒の汗。
前髪は汗で額に張り付き、
首筋を伝った汗が顎先から落ちる。
途中で立ち止まる。
膝に手をつく。
肩が大きく上下していた。
それでも少し休むと、
また歩き始める。
ようやく店の前まで辿り着いた頃には、
Tシャツの背中がうっすら濡れていた。
美咲は冷蔵ケースへ近づく。
そして両手をぺたりと当てた。
目を閉じる。
額までガラスにくっつける。
しばらくそのまま動かない。
やがて顔を上げた。
頬は真っ赤だった。
けれど笑っていた。
本当に嬉しそうに。
心の底から。
その顔を見ているだけで、
どれほど暑かったのか分かった。
美咲はラムネを一本買った。
ビー玉を落とす。
小さな音が響く。
その瞬間、
目がぱっと輝いた。
喉を鳴らして一口飲む。
もう一口。
飲むたびに表情がほどけていく。
その顔だけで、
どれほど美味しいのか伝わってきた。
私はラムネではなく、
そんな美咲ばかり見ていた。
いつからだろう。
坂の向こうに姿が見えるだけで胸が少し高鳴るようになったのは。
店に来ない日が気になるようになったのは。
十一歳の私は、
まだその感情の名前を知らなかった。
その日。
美咲はラムネの瓶を両手で持ちながら夕焼けを見ていた。
坂道の向こうまで橙色に染まっている。
そして小さく言った。
「夏って、終わるの早いね」
私は返事ができなかった。
意味は分からなかった。
けれどその横顔だけは妙に大人びて見えた。
ある日、
私は店の柱に小さな傷を見つけた。
よく見ると文字だった。
M。
美咲のイニシャルだった。
小学五年生のある日、
美咲が釘でこっそり彫ったものだ。
「怒られるぞ」
私がそう言うと、
美咲は悪びれもせず笑った。
そして言った。
「大丈夫」
少しだけ得意そうに。
「こういうのは残るから」
当時は意味が分からなかった。
でも今なら分かる。
三十年経った今でも、
その小さなMは残っていた。
夏休みが終わる少し前。
美咲は引っ越した。
最後に会うこともなかった。
父親が事業を失敗したらしい。
連絡先も知らない。
携帯電話もない時代だった。
だから、
それで終わった。
気が付くと私は店の柱を見ていた。
そこには今も小さなMが残っている。
色褪せた木の中で、
三十年前だけが取り残されたように。
店の外へ出る。
夕焼けだった。
坂道は今もそこにある。
けれど子供たちの姿はない。
私はしばらく坂を見上げた。
誰もいない。
当然だ。
三十年も経っている。
それでも、
西日に染まる坂道を見ていると、
汗だくになりながら坂を上ってくる少女の姿が見える気がした。
額の汗を拭きながら。
頬を真っ赤にしながら。
冷蔵ケースに額をくっつけながら。
そして、
「夏って、終わるの早いね」
と笑う。
その時だった。
背後から声がした。
おばあちゃんだった。
暖簾を整えながら、
夕焼けの商店街を見ている。
私を見ているわけではない。
独り言のようだった。
けれど、
まるで私の心を見透かしたように聞こえた。
「あっという間に終わっちゃったねぇ」
私は振り返らなかった。
返事もできなかった。
その言葉は、
三十年前の夕焼けの中で聞いた言葉と、
どこか重なっていたからだ。
私はもう一度だけ坂道を見上げた。
西日の中には誰もいなかった。
けれど、
汗を拭きながら坂を上ってくる少女の姿だけは、
今もはっきり見える気がした。