✨夜の物語

最後の駄菓子屋

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商店街の端にある駄菓子屋には、西日が差し込んでいた。

色褪せた赤いテント。

少し傾いた看板。

ガラス戸には一枚の紙が貼られている。

白いコピー用紙。

少し斜めに貼られたそれは、風に揺れて端がめくれていた。

太いマジックで書かれた文字はどこか頼りない。

震える手で書いたのだろう。

最後の文字は少しかすれていた。


『今月で閉店します』


昔なら、この張り紙を見て驚く子供たちがいたはずだ。

最後にもう一度行こう。

あの駄菓子を買おう。

そんな話で賑わったかもしれない。

けれど今は違う。

商店街を歩く人は少ない。

学校帰りの子供たちの姿も見当たらない。

この張り紙に気付く人が、一日に何人いるのだろう。

もしかしたら誰も読まないかもしれない。

それでもおばあちゃんは貼った。

誰かのためではなく。

店を閉じる自分自身のために。

そんな気がした。

私は引き戸を開けた。

カラン。

小さなベルが鳴る。

その音だけは昔と変わっていなかった。

店の奥にはおばあちゃんが座っていた。

背中は少し曲がっている。

白髪も増えた。

けれど割烹着姿は昔のままだった。

私は何も言わず店内を見回した。

棚はずいぶん空いている。

けれど匂いは変わらない。

チョコレート。

ラムネ。

古い木材。

夏の熱気。

子供の頃の記憶が、そのまま閉じ込められているようだった。

そして店の外へ目を向ける。

そこには昔と変わらない坂道がある。

私はその坂を見るたびに思い出す。

三十年前の夏を。


小学五年生だった。

夏休み。

朝から蝉が鳴き続けていた。

空は青く高く、

アスファルトは白く焼けている。

駄菓子屋の前の日陰だけが、子供たちの避難所だった。

私は毎日のように店へ来ていた。

百円玉を握りしめて。

アイスを買ったり。

カードを買ったり。

友達とくだらない話をしたり。

そんな毎日だった。

そして夕方になると、

決まって坂の下から現れる女の子がいた。

美咲。

同じクラスだった。

肩まで伸びた髪。

日に焼けた肌。

表情がころころ変わる女の子だった。

嬉しいことがあれば全力で笑う。

悲しいことがあればすぐ顔に出る。

怒れば頬を膨らませる。

心に思ったことを、そのまま表情にしてしまう子だった。

ある日の夕方。

私は店先の日陰に座っていた。

ふと坂の下を見る。

遠くに小さな人影が見えた。

美咲だった。

夏の熱気で景色が揺れている。

坂道は思った以上に長い。

最後は急な上りになっていた。

美咲はゆっくり歩いてくる。

額には大粒の汗。

前髪は汗で額に張り付き、

首筋を伝った汗が顎先から落ちる。

途中で立ち止まる。

膝に手をつく。

肩が大きく上下していた。

それでも少し休むと、

また歩き始める。

ようやく店の前まで辿り着いた頃には、

Tシャツの背中がうっすら濡れていた。

美咲は冷蔵ケースへ近づく。

そして両手をぺたりと当てた。

目を閉じる。

額までガラスにくっつける。

しばらくそのまま動かない。

やがて顔を上げた。

頬は真っ赤だった。

けれど笑っていた。

本当に嬉しそうに。

心の底から。

その顔を見ているだけで、

どれほど暑かったのか分かった。

美咲はラムネを一本買った。

ビー玉を落とす。

小さな音が響く。

その瞬間、

目がぱっと輝いた。

喉を鳴らして一口飲む。

もう一口。

飲むたびに表情がほどけていく。

その顔だけで、

どれほど美味しいのか伝わってきた。

私はラムネではなく、

そんな美咲ばかり見ていた。

いつからだろう。

坂の向こうに姿が見えるだけで胸が少し高鳴るようになったのは。

店に来ない日が気になるようになったのは。

十一歳の私は、

まだその感情の名前を知らなかった。

その日。

美咲はラムネの瓶を両手で持ちながら夕焼けを見ていた。

坂道の向こうまで橙色に染まっている。

そして小さく言った。

「夏って、終わるの早いね」

私は返事ができなかった。

意味は分からなかった。

けれどその横顔だけは妙に大人びて見えた。


ある日、

私は店の柱に小さな傷を見つけた。

よく見ると文字だった。

M。

美咲のイニシャルだった。

小学五年生のある日、

美咲が釘でこっそり彫ったものだ。

「怒られるぞ」

私がそう言うと、

美咲は悪びれもせず笑った。

そして言った。

「大丈夫」

少しだけ得意そうに。

「こういうのは残るから」

当時は意味が分からなかった。

でも今なら分かる。

三十年経った今でも、

その小さなMは残っていた。


夏休みが終わる少し前。

美咲は引っ越した。

最後に会うこともなかった。

父親が事業を失敗したらしい。

連絡先も知らない。

携帯電話もない時代だった。

だから、

それで終わった。


気が付くと私は店の柱を見ていた。

そこには今も小さなMが残っている。

色褪せた木の中で、

三十年前だけが取り残されたように。

店の外へ出る。

夕焼けだった。

坂道は今もそこにある。

けれど子供たちの姿はない。

私はしばらく坂を見上げた。

誰もいない。

当然だ。

三十年も経っている。

それでも、

西日に染まる坂道を見ていると、

汗だくになりながら坂を上ってくる少女の姿が見える気がした。

額の汗を拭きながら。

頬を真っ赤にしながら。

冷蔵ケースに額をくっつけながら。

そして、

「夏って、終わるの早いね」

と笑う。

その時だった。

背後から声がした。

おばあちゃんだった。

暖簾を整えながら、

夕焼けの商店街を見ている。

私を見ているわけではない。

独り言のようだった。

けれど、

まるで私の心を見透かしたように聞こえた。

「あっという間に終わっちゃったねぇ」

私は振り返らなかった。

返事もできなかった。

その言葉は、

三十年前の夕焼けの中で聞いた言葉と、

どこか重なっていたからだ。

私はもう一度だけ坂道を見上げた。

西日の中には誰もいなかった。

けれど、

汗を拭きながら坂を上ってくる少女の姿だけは、

今もはっきり見える気がした。

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