冬の夜だった。
駅前の商店街はほとんどシャッターが閉まり、自動販売機の灯りだけがやけに明るく見えた。
吐く息は白い。
手袋をしていても指先は冷たい。
駅前に残された電話ボックスは一つだけだった。
昔は当たり前だった。
待ち合わせも。
連絡も。
喧嘩の仲直りも。
全部ここから始まっていた。
けれど今は違う。
携帯電話が当たり前になり、公衆電話はほとんど姿を消した。
この電話ボックスも近いうちに撤去されるらしい。
そんな話を聞いていた。
私はしばらくガラス越しに電話ボックスを見つめていた。
すると中に女性がいた。
黒いコート。
肩までの髪。
受話器を持ったまま、どこか遠くを見るような表情をしている。
長い時間そうしていた。
やがて女性は受話器を置く。
そして電話ボックスから出てきた。
その時だった。
カラン。
十円玉が足元に転がった。
私は拾った。
「落としましたよ」
女性は振り返る。
少し驚いた顔をした。
そして、
どこか懐かしそうに笑った。
「ありがとうございます」
十円玉を受け取る。
それだけだった。
けれどなぜか女性はその場を離れなかった。
電話ボックスを見ている。
まるで誰かを見送るように。
「これで終わりだから」
女性は小さく呟いた。
私は意味を聞けなかった。
ただ、
その横顔だけが妙に印象に残った。
―――――

私にも思い出があった。
二十歳の頃。
遠距離恋愛をしていた。
今の若い人には信じられないかもしれない。
当時は携帯電話がまだ高価だった。
夜になると財布に十円玉を詰め込み、
この電話ボックスまで走った。
ガラスの扉を閉める。
受話器を取る。
ダイヤルを回す。
呼び出し音。
そして聞こえる声。
それだけで嬉しかった。
「今日どうだった?」
そんな何気ない会話をするだけなのに、
会えない時間が少しだけ埋まる気がした。
十円玉はすぐになくなる。
カタン。
また入れる。
カタン。
また入れる。
「もう切らなきゃ」
そう言いながら、
なかなか切れない。
今思えば、
あれほど長い十分間はなかった。
結局その恋は終わった。
誰も悪くなかった。
ただ時間だけが流れた。
やがて連絡もしなくなった。
それでも、
この電話ボックスを見るたびに思い出す。
若かった頃の自分を。
―――――
数週間後。
駅前を通ると電話ボックスはまだ残っていた。
その代わり、
張り紙が貼られていた。
『〇月〇日撤去予定』
とうとう決まったらしい。
私は少し寂しくなった。
思い出は残る。
けれど、
思い出を置いていた場所は消えてしまう。
その事実が妙に堪えた。
その時だった。
「あの」
声がした。
振り返る。
あの女性だった。
黒いコート。
冬の日に見た女性。
「この前はありがとうございました」
そう言って頭を下げる。
私は思わず笑った。
「十円玉ですよ」
女性も少し笑う。
「そうですね」
しばらく沈黙が続いた。
そして女性は電話ボックスを見た。
「あそこ、なくなるんですね」
「みたいですね」
女性は頷く。
「昔、主人と電話していたんです」
私は何も言わなかった。
「単身赴任が長くて」
女性は続けた。
「毎週ここから電話してました」
冬も。
夏も。
雨の日も。
「主人は三年前に亡くなったんです」
風が吹いた。
電話ボックスのガラスが小さく鳴る。
女性は少しだけ笑った。
「だから最後に来ました」
その意味がようやく分かった。
電話をしに来たのではない。
会いに来たのだ。
思い出に。
声に。
もう届かない人に。
女性は財布から十円玉を取り出した。
あの日の十円玉だった。
「本当は使うつもりだったんです」
そう言って笑う。
「でも、やめました」
私は理由を聞かなかった。
聞かなくても分かった気がした。
もう十分だったのだろう。
女性は十円玉を握る。
そして電話ボックスへ向かって小さく頭を下げた。
「ありがとう」
誰に向けた言葉だったのか。
電話ボックスなのか。
亡くなった夫なのか。
若かった頃の自分なのか。
私には分からない。
ただ、
その言葉は冬の空気に溶けていった。
―――――
春になる頃。
電話ボックスは撤去された。
ガラスも。
受話器も。
十円玉を落とした音も。
何も残っていない。
けれど私は今でも時々立ち止まる。
そこを通るたびに。
思い出は残る。
でも、
思い出を置いていた場所は、
もうない。
それが少しだけ、
寂しかった。
🌙 もうひとつ、夜の物語を読む
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誰かと話したい夜に