✨夜の物語

公衆電話 ― もう届かない声

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冬の夜だった。

駅前の商店街はほとんどシャッターが閉まり、自動販売機の灯りだけがやけに明るく見えた。

吐く息は白い。

手袋をしていても指先は冷たい。

駅前に残された電話ボックスは一つだけだった。

昔は当たり前だった。

待ち合わせも。

連絡も。

喧嘩の仲直りも。

全部ここから始まっていた。

けれど今は違う。

携帯電話が当たり前になり、公衆電話はほとんど姿を消した。

この電話ボックスも近いうちに撤去されるらしい。

そんな話を聞いていた。

私はしばらくガラス越しに電話ボックスを見つめていた。

すると中に女性がいた。

黒いコート。

肩までの髪。

受話器を持ったまま、どこか遠くを見るような表情をしている。

長い時間そうしていた。

やがて女性は受話器を置く。

そして電話ボックスから出てきた。

その時だった。

カラン。

十円玉が足元に転がった。

私は拾った。

「落としましたよ」

女性は振り返る。

少し驚いた顔をした。

そして、

どこか懐かしそうに笑った。

「ありがとうございます」

十円玉を受け取る。

それだけだった。

けれどなぜか女性はその場を離れなかった。

電話ボックスを見ている。

まるで誰かを見送るように。

「これで終わりだから」

女性は小さく呟いた。

私は意味を聞けなかった。

ただ、

その横顔だけが妙に印象に残った。

―――――

私にも思い出があった。

二十歳の頃。

遠距離恋愛をしていた。

今の若い人には信じられないかもしれない。

当時は携帯電話がまだ高価だった。

夜になると財布に十円玉を詰め込み、

この電話ボックスまで走った。

ガラスの扉を閉める。

受話器を取る。

ダイヤルを回す。

呼び出し音。

そして聞こえる声。

それだけで嬉しかった。

「今日どうだった?」

そんな何気ない会話をするだけなのに、

会えない時間が少しだけ埋まる気がした。

十円玉はすぐになくなる。

カタン。

また入れる。

カタン。

また入れる。

「もう切らなきゃ」

そう言いながら、

なかなか切れない。

今思えば、

あれほど長い十分間はなかった。

結局その恋は終わった。

誰も悪くなかった。

ただ時間だけが流れた。

やがて連絡もしなくなった。

それでも、

この電話ボックスを見るたびに思い出す。

若かった頃の自分を。

―――――

数週間後。

駅前を通ると電話ボックスはまだ残っていた。

その代わり、

張り紙が貼られていた。

『〇月〇日撤去予定』

とうとう決まったらしい。

私は少し寂しくなった。

思い出は残る。

けれど、

思い出を置いていた場所は消えてしまう。

その事実が妙に堪えた。

その時だった。

「あの」

声がした。

振り返る。

あの女性だった。

黒いコート。

冬の日に見た女性。

「この前はありがとうございました」

そう言って頭を下げる。

私は思わず笑った。

「十円玉ですよ」

女性も少し笑う。

「そうですね」

しばらく沈黙が続いた。

そして女性は電話ボックスを見た。

「あそこ、なくなるんですね」

「みたいですね」

女性は頷く。

「昔、主人と電話していたんです」

私は何も言わなかった。

「単身赴任が長くて」

女性は続けた。

「毎週ここから電話してました」

冬も。

夏も。

雨の日も。

「主人は三年前に亡くなったんです」

風が吹いた。

電話ボックスのガラスが小さく鳴る。

女性は少しだけ笑った。

「だから最後に来ました」

その意味がようやく分かった。

電話をしに来たのではない。

会いに来たのだ。

思い出に。

声に。

もう届かない人に。

女性は財布から十円玉を取り出した。

あの日の十円玉だった。

「本当は使うつもりだったんです」

そう言って笑う。

「でも、やめました」

私は理由を聞かなかった。

聞かなくても分かった気がした。

もう十分だったのだろう。

女性は十円玉を握る。

そして電話ボックスへ向かって小さく頭を下げた。

「ありがとう」

誰に向けた言葉だったのか。

電話ボックスなのか。

亡くなった夫なのか。

若かった頃の自分なのか。

私には分からない。

ただ、

その言葉は冬の空気に溶けていった。

―――――

春になる頃。

電話ボックスは撤去された。

ガラスも。

受話器も。

十円玉を落とした音も。

何も残っていない。

けれど私は今でも時々立ち止まる。

そこを通るたびに。

思い出は残る。

でも、

思い出を置いていた場所は、

もうない。

それが少しだけ、

寂しかった。

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