✨夜の物語

夜行列車 ― 名前も知らないあなたへ

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夜の上野駅は、昼間とはまるで別の顔をしていた。

ホームには出発を待つ人たちが並び、どこか落ち着かない空気が漂っている。

駅弁を売る声。

改札のベル。

遠くで響く車掌の笛。

薄暗いホームに、ディーゼルの油の匂いが混ざっていた。

昭和の終わり頃。

夜行列車は、まだ特別なものではなかった。

帰省する人。

仕事で地方へ向かう人。

誰かに会いに行く人。

そして、何かから逃げるように乗る人もいた。

私は仕事帰りだった。

少しくたびれた革靴。

擦り切れかけた紺色のスーツ。

駅の売店で買った缶コーヒーを片手に、発車を待っていた。

車内へ入ると独特の匂いがした。

古い座席の布。

暖房で温められた空気。

誰かが持ち込んだみかんの香り。

窓際の席へ腰を下ろす。

ほどなくして、隣の席に一人の女性がやってきた。

二十代後半くらいだろうか。

ベージュ色のコート。

肩まで伸びた黒髪。

少し大きめの紙袋を抱えている。

派手さはない。

けれど、どこか目を引く人だった。

女性は席につくと、紙袋から文庫本を取り出した。

カバーは少し色あせている。

何度も読み返した本なのだろう。

列車がゆっくり動き出した。

ガタン。

ゴトン。

規則正しい音が車内に響く。

窓の外では東京の灯りが少しずつ遠ざかっていった。

女性は本を読んでいた。

私は缶コーヒーを飲みながら外を眺めていた。

会話はない。

けれど、不思議と気まずくもなかった。

深夜一時を過ぎた頃だった。

車内の照明は落とされ、薄暗い明かりだけが残っている。

通路の向こうでは、デッキで煙草を吸っていた男が席へ戻っていった。

微かに煙草の匂いが流れてくる。

今では見かけなくなった昭和の夜の匂いだった。

隣を見ると、女性は文庫本を読んでいた。

しかし何度も同じページを見ている。

目が疲れているのだろう。

やがて本がゆっくり傾いた。

女性の瞼も閉じていく。

そのまま――

パサッ。

文庫本が膝から落ちた。

私は慌てて拾った。

女性は目を覚ます。

「あっ……すみません」

少し恥ずかしそうに笑った。

「大丈夫ですよ」

そう言って本を渡す。

タイトルを見るつもりはなかったが、表紙が少し見えた。

何度も読み返された跡のある古い恋愛小説だった。

「ありがとうございます」

女性はそう言うと、本を胸に抱えた。

それからしばらく二人とも黙っていた。

けれど不思議だった。

さっきまで他人だったはずなのに、

車内の空気がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。

列車は夜の山間部を走っていた。

窓の外には時折、小さな集落の灯りが見える。

それもすぐに闇へ飲み込まれていく。

やがて列車は小さな駅へ停車した。

古びた木造の待合室。

白い蛍光灯。

駅名の看板は少し色あせている。

ホームでは駅員が懐中電灯を持って立っていた。

遠くで犬が吠える声が聞こえる。

私は何となく席を立った。

長時間座っていたせいか、少し身体を動かしたかった。

ホームへ降りる。

夜の空気はひんやりしていた。

売店は閉まっていたが、自動販売機だけが明るく光っている。

缶コーヒーを買う。

ガコン。

という音が静かなホームに響いた。

「眠れないんですか?」

後ろから声がした。

振り返ると、あの女性だった。

紙袋を抱えたままホームへ降りてきていた。

「少しだけ」

私は答えた。

女性は小さく笑った。

「私もです」

夜風が吹く。

どこか海の匂いが混じっている気がした。

列車のエンジン音だけが低く響いている。

私は缶コーヒーを一本差し出した。

女性は少し驚いた顔をしたが、

「ありがとうございます」

と言って受け取った。

缶の温かさを確かめるように両手で包む。

しばらく二人とも何も話さなかった。

それで十分だった。

夜行列車には、

無理に埋めなくていい沈黙があった。

やがて発車ベルが鳴る。

車掌の笛。

列車がゆっくり動き出す。

二人は慌てて乗り込んだ。

席へ戻ると、

女性は缶コーヒーを見つめながらぽつりと言った。

「昔、父と乗ったことがあるんです」

それが、

彼女が初めて話してくれた自分のことだった。

その後も少しだけ会話をした。

父親のこと。

海の近くで育ったこと。

子供の頃、夜行列車に乗るのが好きだったこと。

けれど、自分のことを語るたびに、

どこか大切な部分だけを避けているようにも見えた。

私は聞かなかった。

聞いてはいけない気がした。

夜が明け始めた。

東の空が群青色から薄い青へ変わっていく。

やがて海が見えた。

静かな海だった。

朝日が水面をゆっくり照らしている。

車内の誰かが

「きれいだな」

と呟いた。

女性も窓の外を見ていた。

その横顔は昨夜より少し穏やかに見えた。

列車は終着駅へ近づいていた。

ホームへ降り立つ。

潮の香りがした。

遠くでカモメが鳴いている。

女性は紙袋を抱え直した。

そして私に向かって頭を下げた。

「ありがとうございました」

それだけだった。

名前も。

連絡先も。

何も聞かなかった。

聞けなかった。

女性は改札の向こうへ歩いていく。

朝日に照らされた後ろ姿が少しずつ小さくなった。

そして見えなくなった。

人生には、不思議な出会いがある。

恋だったのか。

ただの偶然だったのか。

今でも分からない。

名前も知らない。

どこへ向かったのかも知らない。

それでも、夜行列車の音を聞くたびに思い出す。

ディーゼルの匂い。

缶コーヒーの温かさ。

夜明けの海。

そして。

朝日に照らされたホームで見た、

あの人の左手を。

薬指には何もなかった。

けれど、そこには確かに

何かを失った人だけが残す、

小さな白い跡があった。

あれから何十年も経った。

それでも時々思う。

あの人は、

あの日から幸せになれただろうかと。

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